今でも覚えている。
幼稚園に通い出した年の夏休み、両親の田舎である鹿児島に行った。
空港で出迎えてくれたのが祖父や、親戚だった。
その時に「この人がお祖父ちゃんなんだ」と初めて認識したような感じだった。
最初の夜だったか、叔母さんがカレーライスを作ってくれたのだが
僕にはそれが辛く感じてしまい、食べられなくてダダをこねたところ
「食べんか!」と祖父に言われた。
祖父にしてみれば、軽く言った言葉だったかもしれないけれど
僕にはその鹿児島弁が強い口調で言われているみたいに感じてビビってしまい、大泣きをした。
その日から祖父に対して、何となく苦手意識が出来てしまった。
祖父が血の繋がった人ではないと知ったのは、小学校の高学年の頃か、中学校に入ってからのことか・・・。
僕の血の繋がった祖父は、太平洋戦争末期に硫黄島で戦死している。
ずっと「自分の祖父ちゃん」と思っていた人が、そうでないと知った時は少しショックだった。
祖父は、血の繋がった祖父の末弟にあたり、血の繋がった祖父が戦死した後に
祖母と結婚し、親父を育てた。
「お父さんは『自分のことを育ててくれた』ってお祖父ちゃんに感謝しているんだよ」
そのことを教えてくれたお袋が、僕ら兄弟に言った。
高校を卒業して1年浪人生活を送り、進学した大学は祖父が暮らす鹿児島にあった。
何かにつけて「トオルはやっせん」と親父が祖父に話していたので
祖父としては「コイツを叩き直さないといかん」と思っていたようだ。
僕は僕で、親元を離れたからといって何も出来なくなるというのが悔しくて
自分で本当に最初から自分を作っていくというか、結構頑張った時期でもあった。
月に1回のペースで、祖父母に会いに行っていただろうか
祖父とおいしくビールを飲めるというのも、これまた幸せなことでもあった。
苦手意識が強かった祖父に対して「意外と祖父ちゃんて可愛いじゃん」なんて思うようにすらなった。
大学を卒業して地元に戻る時、祖父は体調を崩して入院していた。
親父も鹿児島に来ていて、親父と祖父に別れの挨拶をしに行った。
その時に祖父が僕に掛けてくれた言葉が、これから社会に出ていく僕に
どれだけ勇気を与えて、どれだけ背中を押してくれたことか
どれだけ「ありがとう」という言葉を並べても足りないくらい
僕は祖父にお世話になったという気持ちが強い。
せめてもの恩返しに、生まれてくる息子を立派な薩摩隼人に育てたい。
今日、5/6
仕事から帰ってきて、夕食を済ませ「風呂上がりに一杯」と缶ビールを開けたところに
兄貴から電話がありました。
「今、親父から電話があって、祖父ちゃんが亡くなったって・・・」
今年に入り、体調を崩して入院をしていたのですが
年齢が年齢なので病院側も手術が出来ないような状況と聞いていました。
一度、退院をしていたのですが、5/1にまた入院をしたらしく
翌5/2に親父が急遽、鹿児島へ帰りました。親父からの電話だと
「お父さんが帰ってきたことをわかっているんだか、わかっていないんだか、わからない」
という状態だったということのようでした。
ここ2日間くらい連絡が無かったので、しばらくは大丈夫かな?なんて思っていた矢先のことでした。
嫁さんに言わせれば「典型的な鹿児島の爺ちゃん」という感じだそうで
いつも元気に大きな声で「なんちぃ?」と言っていた祖父ちゃん。
結婚してから何度か顔を合わすことが出来て、その度に「子供はまだか?」と言われ
「まだだよ」と答えれば「おまぁ~!」と言われ。
別れ際はいつも「頑張れよ~」と温かい言葉を掛けてくれました。
「僕の中の鹿児島」では一番大きな存在でした。
今はジワジワと色々な感情がこみ上げてきて涙が止まらない感じだけど、亡くなったという実感もまだ薄い。
本当にもうすぐ、あと少しでひ孫が誕生するところだったのに・・・。
そんな気持ちばかりが先行してしまっている。